チェコの情報

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アルハ劇場(Divadlo Archa): Jan Burian(ヤン・ブリアン)60歳の誕生日コンサート [UA-125732310-1]


ヤン・ブリアン(Jan Burian)
チェコが生んだ稀代のエンターテイナー・シンガー・
ソング・ライター

Divadlo Archa(アルハ劇場)はフロレンス(Florenc)地下鉄B,C線駅下車から歩いて10分。ブリアン氏はチェコ戦前の有名な詩人、作家、歌手、俳優、ミュージシャン、作曲家、編集者E.F.Burian(エー・エフ・ブリアン)の息子です。私は彼の悲しいヒューマー大好きです、ピアノの音、話など。

◇プロフィール◇

 ●1952年プラハで生まれる。父は作曲家で現代演劇の演出家。母は作家。プラ
ハのカレル大学でジャーナリズムを専攻。

 ●シンガー・ソング・ライター兼ピアニストとして、チェコおよびスロバキアのク
ラブや劇場で、これまで2,500回以上出演している。

 ●最近数年間に以下のような著作をチェコで出版している。
「精神の時間」(詩集)
「速く、私が忘れないうちに!」(回想録)
「何処かに、あのドロドロとした、舌にざらつくコーヒーはないかしら?」(雑誌に
掲載された読み物を集めたもの)
「ニューヨークについて」(旅行記
デンマークについて」(デンマークについての印象とデンマークチェコ両国民の
関係 についての省察
 その他、アイスランド、チリーなどへの旅行記が何冊かある。

 ●また、叙情的な詩と非伝統的な音楽をベースにした自作の歌のアルバムを出して
いるが、例えば次のようなものがある。
「詩」(ボントン、1994年)
「精神の時間」(ボントン、1996年)
「天からの漆黒」(インディーズ、1997年)
「ただ歌うだけ」(インディーズ、1997年)
「疲れた戦士」(インディーズ、2000年)

 ●6年前からチェコ・テレビの番組制作に携わっており、60以上の番組を制作し
ている。

◇ヤン・ブリアンについて◇
パベル・クルサーク(1996年、プラハ

 事情に疎い人々のためにヤン・ブリアンのことを少し紹介してみたい。彼は素晴ら
しい頭の持ち主である。しかしながら、素晴らしい声の持ち主であるとは言えない。
それでも長年にわたって歌を書いて来たので、どううまく歌うかということについて
は知っている。友人のイジー・ジェデチェクとともにおよそ15年間も共産主義者
馬鹿にして来た。共産主義者達が考えた結論は彼にレコードを出させないということ
であった。ヤン・ブリアンにとって最初のこのレコーディングは、1989年11月
の変革後になってやっと実現したものである。しかしながら、当時は誰もこれらの叙
情的な歌に耳を傾ける時間もなかったし、そういう気分にもなれなかった。これらの
歌は、本当に、少なくとも要点だけでも一度印刷されるべきであった。
 その時以来、ヤン・ブリアンはいくつかのレコードを出している。どれもお互いに
全く異なる。新しいアルバムが出る毎に彼はそれまでの聴き手を捨てる。丁度秋にな
ると木が木の葉を捨てるようにである。一番忠実な人々−−−および一番無知な人々
−−−だけが彼から離れないでいる。最近、彼は全てが自分から離れてしまったと感
じて歌を書くのを止めてしまった。その代わりにチェコ語の詩を音楽にしている(1
994年にボントン・ミュージックから出した「ポエジー」というCD)。そして、
中学校で開かれる彼のコンサートで若者達を静かにさせるのに使っている。彼は、ま
た、テレビのトーク・ショーのレギュラー番組の司会もやっている。その番組で、ゲ
ストは、30分間、知的で面白い時間を過ごせるが、何と言っても、ヤン・ブリアン
が歌うのを聞かなければならない。
 彼は旅をする度にその旅についての本を書く(今までに4冊も出しているのだ!)
。そうしているのは、結局、母親ゆずりなのである。
 現在、彼はシンセサイザーを弾かない。その代わりに、ピアノにいろいろな物を投
げつけて、彼のピアノの音が悪いのは当然であるかのように振る舞う。時々、彼の1
7歳になる息子のイジーがドラムで伴奏することがある(ピアノとドラム、正に未来
の波だ)。
 彼は、何年もヒットを出そうと努力した後に、遂に、職業的なコンシエルジュにな
ってっしまった。そして、少なくとも当分はコンシエルジュ番付表をすごいスピード
で上がっている。

◇レビュー:一級のエンターテインメント◇
ジューディス・フィーラー
 寒い雨の夜にはよい友をと過ごすのに限る。あなたを理解してくれるだけでなくて
、あなたが抱えている問題を笑い飛ばすように仕向けてくれ、やる気を起こさせてく
れるような友をである。正に、2000年4月18日に在米チェコ共和国大使館で開
かれたヤン・ブリアンのプレゼンテーションで聴衆が発見したのがそのような友であ
った。
 ヤン・ブリアンはチェコの華やかなエンターテイナーの一家の出身である。彼は、
前衛劇場D34の創設者であり、劇作家、作曲家、作家であるエミル・フランティシ
ェク・ブリアンのひい甥である。従って、彼が舞台で全く平然としているのは驚くべ
きことではない。彼は、遅れて来た人達を、自分の家に招いたように自然に歓迎する
。そして聴衆はすぐに気楽になり、心地よい気分で、ヤン・ブリアンのウィットに富
んだ歌や皮肉を効かせたジョークを完全に受け入れるようになる。そして、王が道化
師を重用した理由がわかるようになる。ヤン・ブリアンの想像力に富んだ鋭いユーモ
アのセンスは本やレコードでも素晴らしい効果を発揮するが、何といっても、本人を
見ることが一番インパクトがある。何故ならば、彼の人懐っこい笑顔、天使のような
表情がすっかり警戒心を解いてしまうからである。そして、ドタバタ劇で顔に飛んで
来るクリーム・パイのように不意にパンチが繰り出される。
 ショーが進むにつれて、ヤン・ブリアンの巧みさと演劇上の能力がわかって来る。
ショー全体が即興的に見えるが、無駄な動きは全くない。どんな仕草も反応を呼ぶ。
どんな言葉も絶妙のタイミングに、最大の効果を求めて発せられる。彼が自分でピア
ノ伴奏をする時には、洗練されたリズムのパターンと複雑なジャズの調子に無造作に
入って行く。しかし、それはそのこと自体が目的ではなくて、彼が考えているムード
をしっかりと支えるためなのである。「無策の策」という文句がここでは新鮮な意義
を持っている。
 彼は、冗談めかして自分の素材はプラハのフォークの伝統であると言う。いたずら
っぽい真面目さで、プラハフォークロアをニューヨークのフォークロアに、モラビ
アビのフォークロアをワシントンのフォークロアになぞらえた。しかしながら、彼が
実際に示したものは、確かに自分の家族の伝統の一部である。チェコの地の旺盛なフ
ォーク精神は、逆境に耐え、繁茂さえする芸術の形を生みだした。時代と環境に合わ
せて変わることによって、こうした芸術は聴衆にだけでなくてアーティストにも心を
与え続けている。
(在米チェコ共和国大使館発行ニュースレター「チェコ・ニュース」(2000年5
月、Vol.
IX. No. 5)

フォルクシンガー共同ウェブ、ブリアン氏のプロジェクト